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    隆中游记

    2021-12-02

        今年5月初,随队去了湖北,以往走湖北,都是游三峡寻武当,这次不同,专走革命老区,三国之路,值得一说的是襄阳的古隆中,到了这里才发觉三国知识之匮乏,真不该苦读金瓶梅而没有好好看看三国志,仅存在脑中的一点印象还得拜托易中天。当即跟老领导们表示,回去一定恶补。

    今年五月頭に、チームと一緒に湖北に行った。以前、湖北に行った時、三峡と武当へ観光するようにしたが、今回が前と違って、革命旧址を中心に、三国の道も行った。一つ特筆に値するのは襄陽の古隆中でして、ここに着いてから金瓶梅を読まなくて、三国誌をよく読んでよかったと思うようになった。頭に残っているわずかな印象も易中天のおかげだ。その当時に、先輩たちに帰ったらぜひよく勉強すると表明した。
        我们去的那天正好赶上大雨,雨中的古隆中屋舍俨然,修竹千杆,树影婆娑,秀水妩媚,荷叶随风和雨点摇摆,四周透着寂静,只有哗哗的雨声,不知为啥,这倾盆大雨让我觉得有些神圣,突然有种不知身处何世的感觉。

    そこに行った日、ちょうど大雨にあった。雨の中にある古隆中が整然としていて、茂った林に長く伸びた竹が並んで、木影がゆらゆら揺れ、水があでやかで、ハスの葉が風や雨と揺れている。周囲が静かで、聞こえるのは雨の音だけだった。何だか、この大雨が神聖だと思うようになって、居場所が分からなくなってきた。

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    眼前庭院错落,古树参天,松柏滴翠,淡雅幽静。据说诸葛亮青年时期在这里隐居长达数十年之久。

    目の前に、庭が並んで、古木が聳えて、松柏がうっそうとしていて、上品であっさりした雅趣がある。諸葛亮の若い時期はここで隠居して数十年もくらしているという。


    导游是个土生土长的当地人女孩,她嘴里常说的一句话就是:三国故事湖北多,这可不是在吹牛。三国演义120回,其中的75回就发生在我们湖北,而这75回中又有44回发生在襄樊。我们问她襄阳的武侯祠是不是正宗,据说全国有7座被列为文物保护单位的武侯祠,河南南阳武侯祠的规模相当可以啊,小丫头显得有些激动。

    ガイドは育ちの地元の女の子で、彼女がいつも「三国の話には、湖北のことが多い」。これはほらを吹くことではない。確かに、三国演義は120回があり、その中の75回が湖北のことであり、その75回の中で44回が襄樊のことである。彼女に襄陽の武侯祠は正宗かどうかを聞いたところ、全国には文物保護単位の武侯祠に指定されるのは7つがあり、河南南陽武侯祠の規模はかなりいいですよと彼女がすこし興奮になってきた。
     
       
    据史料记载,从古到今,为谁是诸葛亮正宗纪念地而发生过不少争执。其中尤以湖北襄阳古隆中和河南南阳卧龙岗两地的武侯祠谁为正宗之争最为有名。两地的武侯祠,历史悠久。隆中的建于晋代,保留着古朴的风貌;南阳的建于唐代,更显得宏大堂皇;两地都以诸葛亮的躬耕地自居,为武侯祠的正宗而争。为此,还打过不少笔墨官司。隆中派以《隆中对》之隆中为证,南阳以《出师表》臣本布衣,躬耕于南阳为证,争得不亦乐乎。直到清代咸丰年间,襄阳人顾嘉衡出任南阳做知府,但他这个官可就有点难做,这个官司就闹到他的堂前,可要处事公平,一碗水要端平,若是向着家乡,将武侯祠的正宗桂冠判给襄阳南阳百姓就叫他这个知府坐不稳。

    史料記載により、昔はどちらが諸葛亮の記念地に関して、多くの確執があったという。中では、湖北省襄陽古隆中と河南南陽武侯祠臥竜崗ではどちらが「正統」であるという論争が最も有名である。両地の武侯祠とも悠久の歴史をもって、隆中のは晋時代から殘され、質樸な風貌を保有している。南陽のは唐時代に建てられ、もっと大きくて立派である。両地とも諸葛亮の躬耕地という、武侯祠の本場を争っている。そのためには、多くの論争をかけていた。「隆中派」が『隆中対』を証拠にし、「南陽派」は『出師表』の「臣本布衣、躬耕南陽」を証拠にし、激しく争っている。清朝咸豊年間まで、襄陽人である顾嘉衡が南陽府知事に就任し、この難題に面してきて、公平に処理しなければならない。故郷に偏ってしまうと、この正統桂冠が襄陽に与えるが、南陽庶民がこの府知事を不安定させてしまう。

     
       
    襄阳人认为,既然是家乡人到南阳为官,一定要为家乡人伸张正义,将古隆中的武侯祠判为正宗,否则不要他回家乡。两边互不相让,要等顾知府表态。顾嘉衡听了双方的意见,没有立即表态,拍案休堂,说是第二天再判。第二天一早,双方又来到府衙,等顾知府的评判,只见顾嘉衡拿出文房四宝,提笔写了一幅对联:心在朝廷原无论先主后主;名高天下何必辩襄阳南阳此联一出,双方心服口服,都佩服顾知府的才智,从此这场争论才告一段落。那么,诸葛亮躬耕之地究竟在何处呢?只要了解当时的历史地理知识,就不难辨别。隆中在汉时属南阳郡所管辖,于是诸葛亮便称自己躬耕于南阳。明代以后,隆中才划归襄阳,而襄阳南阳又分属湖北河南两省,因此才有了以上的争论。

    襄陽人が襄阳人だから故郷のために正義を広めるべきでして、古隆中の武侯祠を正統に判定しなければならないと思っている。お互いに譲り合わない府知事の態度を待つようにした。顾嘉衡が両方の意見を聞いてから、その場で意見を言わなく、翌日にまた検討すると決まった。翌朝、両方がまた府邸に来て、判定を待ってきた。顾嘉衡が文房四宝を出して、「ここらが朝廷に属しているならば、元の主と後の主に係らず。名声があるならば、襄陽と南陽に係らず」という対聯を書いた。この対聯を見て、両方が納得してきて、顾府知事の才能に感心し、この争いも終わった。では、諸葛亮躬耕の地がいったいどちらにあるでしょうか。当時の歴史地理知識が分かれば、判定するのは簡単だ。隆中が漢時代に南陽郡が管轄するので、諸葛亮が「躬耕南陽」と書いた。明時代以降は、隆中が襄陽に属するようになったが、襄陽、南陽がそれぞれ湖北省、河南省にぞくしているので、以上の論争が生じた。
     
       
    事实上,诸葛亮的躬耕之地只有一处,那就是古隆中。后来中国的专家小组在四川召开了一个研讨会,最终确定在襄阳古隆中,其实这是有很多依据的,我们暂且不说隆中对,首先从诸葛亮的人际关系说起,他的老师水镜先生先生,也就是三国演义中所提到的司马徽,就居住在我们襄阳南漳县城,故居仍然存在无可厚非;诸葛亮的同窗好友徐庶,就是三国演义中提到的一个被迫一身都在曹营中做官,然而却未跟曹操献一计,俗称身在曹营心在汉的人物,他也是住在南漳县城;诸葛亮的妻子黄月英,就是被时间传言丑女的黄阿丑,是襄阳城西黄家湾人氏。
     
     実際には、諸葛亮の躬耕地は1箇所だけで、それは古隆中である。その後、中国の専門家がグループで四川にセミナーを行い、襄陽古隆中に最終決定した。これは様々の証拠があり、まず諸葛亮の人間関係、水鏡先生から、つまり三国演義の司馬徽から話しましょう。彼が襄陽南漳県に住んでいて、今でも旧址が存在している。同級生の友人徐庶が、「三国演義」で出た人物で、一生曹の陣営で勤めたが、曹操に一つも提案も提供しなかった。いわゆる「身が曹営にいるが、心が漢に属している」。彼も南漳県に住んでいた。諸葛の妻黄月、ブスと言って、襄陽城西の黄家湾の出身である
       
    说道黄月英究竟是丑还是美,献上一图,真假不做考究,美丑还是一目可辨。非本人摄影水平不行,玻璃反光。

    黄月英は一体醜いかまたは美しいか、真偽が分からないが、この図を参照すれば分かる。私の撮影レベルは低いではなく、ガラスの反射のせいだ。

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     三顾堂,顾名思义就是为了纪念刘备三顾茅庐而修建的。据说刘备三顾茅庐时在这里拴过马。后人依此建一四合院,名三顾堂。堂内陈列有岳飞手书的《出师表》。三顾堂内有刘备、关羽、张飞的塑像。门前的三棵古柏,相传是刘、关、张挂马的。原材自然早已死了,现存的为后人所栽,当无可置疑。

    堂は、文字通りに「劉備三顧の礼」の記念のために建てられたものである。劉備が三顧の礼をした時、ここに馬を縛ったことがあるということだ。後代の人が四合院を建てて、三堂と名づけた。堂内に岳飛手書きの『出師表』が陳列され、三堂に劉備、関羽、張飛の像がある。門の前の三本の古い柏が立って、聞くところによると、劉、関、張が馬を縛ったところだといわれたいる。元の木が当然死んでいたが、現存するのは後代の人が植えたものである。

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    诸葛亮躬耕隐居三十载,从这里开始挥写他的人生,从这里开始飞跃,由三足鼎立和蜀地的盛世,再到蜀后主的昏庸、诸葛的离逝、蜀的灭亡,从烽火硝烟到治国平天下,为振兴汉室而鞠躬尽瘁、死而后已,在蜀而言,可以没有皇帝,但少不得诸葛。

    諸葛が隠居した30年で、ここから自分の人生を書き始めた。ここから始め、飛び出し、三国対立から蜀国繁栄へ、蜀国愚かな皇帝に会い、諸葛の辞世、蜀国の滅亡、戦争から天下統一、漢を振興させるため努力を惜しまなく死ぬまで貢献した。蜀国にたいして、皇帝がないのがよいが、諸葛を欠かせてはいけない

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    大江东去,浪淘尽,千古风流人物。每个时代都有属于每个时代的智慧与风流。

    大江は東へ流れ、波が絶えず、永遠のヒートーが伝えられている。時代ごとにその時代の知恵と風流がある。

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